日本の歴史は大きく3つの時代に分けられる。
まず、最初に貴族が政治を司った朝廷時代。
次に、武士が政治の主導権を握った武家政治時代。
そして、平民が政治の中枢を占めた議会制民主政治の時代。
この3つが日本の歴史の節目となっています。
その中で源平の合戦・そして明治維新の立て役者が生まれた
明治維新。そのどちらもが海峡の町下関を舞台として生まれました。
もともと下関市は、大陸への窓口とし大和朝廷の時代から西の
重要拠点とされていました。やがて、朝廷支配・貴族支配が終わり
武士の時代になると、対外貿易の基地として下関は発展していきました。
大陸との交易に積極的だった大内氏の時代には、物資の集散地として
当時、赤間ヶ関と呼ばれていた下関の振るわいはかなりのものだったと
言われています。
江戸時代には、北前船の中継地として、遠くは北海道・東北・北陸から
諸国の物産が集まり、ここを経由して江戸や大阪に運ばれていきました。
その頃の下関には、約400件の問屋が軒を並べておりその繁栄ぶりは
『西の難華』と肩を並べる程の賑わいだったと言われております。
近代に入ると、大陸に近いという物理的特性を生かした国際貿易港都とし
てさらなる発展をとげていく事になります。
そして、その当時の豪商達は競う様に大御殿を造っていきました。
当時、下関市には日和山と名池山という最高級住宅地がありそこに
居を構えるという事は、下関で財を成したもののステイタスと考えられて
いました。
その豪商の中の一人、津崎襄一は当時の金額で数千円・現在価格で
数十億円という巨費を投じて、日和山の一等地に御影石
の石組みを組みその上に豪邸を建設致しました。
当時、日本建築では有名な設計家・岩本久道の手によって設計された
建物は宮大工の棟梁・藤本友次郎 副棟梁・内田幾次郎
左官頭・若林教一 石工頭・曽利新吉他50名の手によって、
大正10年12月21日に完成致しました。
その後下関の繁栄は次第に関東に奪われ始め、衰退していく事になりました。
当時、吉本日海の父・好夫は下関市において船舶業を商っており当時の
建物に出入りしていた関係もあり、その家を取得する事になりました。
その後、吉本日海の手によって改築が行われ現在の日和庵が誕生致しました。
生まれ変わった日和庵は、大正時代の面影を色濃く残しながら近代の居住性
をも叶えた素晴らしい邸宅と言えるでしょう。
そして、その庭から眺める関門海峡は1000年に渡って天下国家を夢みた
人達が活躍した大いなる舞台と言えるでしょう。